
2025年5月12日に土佐土建のオーナーであり、我々ソフトボールチームの親分であった西村高さんがお亡くなりになりました。ここ数年はガンと戦っていて、あまり体調が良くなかったんですが、つらい抗がん剤の治療も乗り超えて頑張っていました。
今年になってからはかなりしんどかったようで、練習を見にグランドには来るものの車からは下りずに、車の中から練習を見ているだけになっていました。皆と一緒に試合に行くことを楽しみにつらい治療も頑張っていたんだと思いますが、残念ながら息を引き取ってしまいました。
強烈な個性
私と西村さんとの出会いは私が高校を卒業して最初に闘犬センター(創部したばかりで、最初の大会出場だったと思います。)の選手として参加した大会の決勝戦(?)で、当時高知県で強豪だった鴨田体育会と対戦した時になります。
西村さんは高知県を代表するピッチャーでした。私は高校を出たばかりのペーペーのピッチャーでしたが、何とその試合勝ってしまったんです。西村さんからレフトオーバーのホームランも打たせてもらいました。たぶん高校生だとなめていてド真ン中に投げたら打たれてしまった感じだとは思いますが、社会人としても最初のホームランは西村さんから打ったことは間違いありません。
ただしこのことは西村さんは全く記憶していないらしく、土佐土建に入ってその時のことを話すと、自分が打たれたことは全く話さず(たぶん覚えていないし、打たれてないと思っているはずです。)「高校からボールが速いピッチャーが入ったって聞いたけど、たいしたことなかったわ!」としか言いませんでした。人間自分の都合の良いことしか記憶しないように出来ているようです。私も自分の都合の良いことしか記憶していないので、お互い様で仕方ないですけどね(笑)
最初は相手チームのピッチャーとしか認識してなかったですが、その後何度も対戦したりその言動、行動を見聞きしたりして「この人は相手せられん!」ということに気が付きました。昔は個性豊かな人がたくさんいましたが、その中でもこの西村高という人は特別な人でした。
恐い、声が大きい、態度がでかい、気分が悪くなれば試合中でも帰ってしまう。「やめた、やめた!」と言ってグラブをゴミ箱に投げ入れて帰ってしまった姿を見た時は、こんな人がおるがやと驚いたものでした。なので私の知っている中でも、かなり強烈な個性の持ち主でした。
と言うことなどがあって私は西村高という人に対して、良い印象は持っていなかったんです。
土建でソフトせんか?
40歳になろうとしていた時でした。2歳年上の杉本さんと平松さんが少し前から壮年でソフトボールをしていることは知っていました。当初所属していたチームを離れて西村さんがオーナーの土佐土建に移るようになり、私も一緒にやらないかというお誘いがありました。闘犬センターというこれもまた強烈なオーナーの下でソフトボールをやって、もうお腹いっぱいだったのと、もうこれ以上ソフトボールをやるつもりはなかったんです。さらに誘われたチームのオーナーが西村高さんだと聞けば、それは無理ですよと答えるしかありませんでした。さらに杉本さんと私はまだコーチとトレーナーという立場で闘犬センターに関わっていましたので、自分がプレーするようなことは考えてもいませんでした。
ただ二人からは「高さんも昔の高さんじゃない。年を取ってただのお人よしのおんちゃんになっちゅうき。」と信じられないような言葉で説得が続きました。あんまり言われるし、もうどこでもやるつもりはなかったので「登録だけはしてもいいです。」と言ってしまいました。これがすべての間違いの元でした(笑)
山梨県である全日本壮年に行くことになったけど人が足らんき行ってくれと言われました。困っていると先輩に言われたら断れません。仕方なく行くことになりました。この時はまだ闘犬センターの練習に行っていましたので、土建の練習に参加したこともありませんでしたし、壮年のソフトボールなんて見たこともなかったんです。
大会は雨の影響で順延となって、仕事の都合もあり、さらにチームとしても棄権するとのことだったので、急いで帰らないといけない3人と一緒に先に高知に帰りました。そして高知に帰ってみたら結局チームは試合をしていました。「棄権するって言いよったやん。」最初はそう思っていたらしかったんですが、最後は高さんが「やる!」って言いだしたらしく、このチームは高さんのわがままがまかり通るしかないチームでした。
こんなことで始まった壮年でのソフトボールでしたが、一回参加したことで何となくこれからも参加するんだろうという雰囲気になっていったのが間違いでした。それから何と25年も土佐土建でソフトボールをする、西村高のわがままと戦うことになりました(笑)
声の大きな二人のオーナー
私が社会人になってから所属したのは2チームです。闘犬センターと土佐土建、二人のオーナーはどちらも子供がそのまま大人になったようなところのある、声の大きなガラの悪い人でした。
この声の大きな二人のオーナーの言うことにことごとく歯向かい、言うことを聞かなかったのは私です。私もこの二人以外のチームではソフトボールが出来ない変わり者だったことは間違いありません。ご迷惑をおかけしました。
約50年のソフトボール人生でしたが、ここまで長くソフトボールが続けてこられたのはこの声の大きなオーナー二人のお陰でもあります。いろいろ問題はありましたが、ソフトボールをする環境は最高のものだったと思います。闘犬センター時代は遠征費、道具代、飲み食い代のすべてを出してもらいましたし、土佐土建時代はさすがに部費(月3,000円、年間3万円)は払っていましたが部費以外、県外の大会に行っても負担を求められることはありませんでした。食事は必ず外の居酒屋、焼き肉屋等でしたので、たぶん全国の壮年、実年、シニアのチームの中では一番贅沢な食事をしていたチームだったと思います。
一番多い時には大会中3回焼肉に行ったことがありますし、行くと肉だけでなくてたくさんお酒も飲みますので、その出費はたいへんなものだったと思います。部費を払っているものは負担なし、払っていないものは3万円持ってこいって言うのが通常だったので、そのお金は宿泊代でほとんど終わってしまい、飲み食い代はすべてオーナーのポケットマネーでした。さらにほとんどが車に乗り合わせての移動でしたので、高速代やガソリン代も負担してくれていました。ただ私には「お前社長やろうが。」と言って途中からガソリン代と高速代はくれなくなっていました(笑)
杉本さんに言わせると「俺らあは高さんのおもちゃやき。」高さんは高いお金をだして我々を思い通りに動かして遊んでいただけで、我々はそのわがままに付き合うことでおいしい物にありつけ、たいした金銭的負担もなくソフトボールが続けられたと言えると思います。ただほとんどがそのオーナーのわがままを黙って「はい。」と受け入れていたわけですが、我々は意思のある人間なので私のように反発したり、言うことを聞かない者がいたりするのでそこはどうも気に入らなかったりもしたようです。
ここには高さんとの特殊な人間関係があります。高さんは高知商業の出身です。その後鴨田体育会でソフトボールをやられていました。その高知商業の後輩であったり鴨田体育会の後輩は大変です。基本「はい」しか言えません(笑)しかし私は違います。高知商業の出身ではありませんし、まして鴨田体育会とは長く戦ってきた敵でしたので、簡単に「はい」とは言わない、言う必要がないと思っていましたし、高さんにもそう言っていました。
私にはよく「俺の言うことを聞かんやつは使わん!」と怒っていました(笑)
土佐土建には高さんと鴨田体育会でバッテリーを組んでいた佐井さんという方がおられました。この方も今年2月にお亡くなりになりましたので、今頃空の上でまたキャッチボールをしているかもしれませんが、この方が私が土佐土建でソフトボールをするようになった時に「杉本や平松、お前が高と一緒にソフトボールをやってくれることが嬉しいがよ。」と言ってくれていました。
それだけ激しい闘いを繰り広げてきた2チームだったわけですが、その敵だったチームの人間がこうやって西村高のところでソフトボールをやってくれることが嬉しかったようでした。逆に我々を受け入れてくれた高さんの懐の広さがあったからだとも言えます。
お人よしでした!?
顔を見ていたらとてもそんな風には見えません。声も大きいし、語気も荒いので恐いんです(笑)土建業ということもあり、そうやってないと舐められるということもあったのではないでしょうか。アイキャッチに使った遺影のような優しい笑顔でいることなんかめったにありません。
人を褒めることもほとんどありません。ソフトボールのことになれば常に自分が一番です(笑)自分が抑えたこと、自分が打ったことしか言いません。本当に勝手な男です。
でもその大きな態度、大きな声を利用して各界をまとめてもいました。土佐土建の創業記念パーティー(何十周年かは忘れてしまいました。)が開かれた時に、たくさんの同業者の他に複数の衆議院議員と参議院議員が出席されていました。私が「たかだか土佐市のちっちゃい有限会社の創業記念パーティーに、これだけの国会議員が来ちゅうってすごいでね。」と言うと、その「たかだか土佐市のちっちゃい有限会社」が気に入らなかったのか怒ってましたが、それだけ業界内ではまとめ役、調整役として頑張っていたことの証明だったと思います。
人を引っ張って行くにはある程度強引なところも必要になると思います。それでも相手の言い分も聞いてあげないといけないでしょうし、みんな気の荒い土建屋さんですので気も使っていたんだろうと思います。その分ソフトボールに来た時は自分のわがままを全部出すようにしていたのかもしれません。
ソフトボールでも長く西部地区の会長をしていました。大会が少ないと言って自ら大会を開催してみたり、出なくてもいい大会に出るというので「止めたら?」と言うと「協会も参加が少ないとお金が入らんき、出ちゃらないかんわや。」と参加したりと、人一倍気を使う人でもありました。全国大会があるとパンフレットを作ることになるんですが、これに掲載する広告集めもやっていましたね。知り合いの会社に声をかけて広告を出してもらい、かなりの数を高さんが集めていました。私などにはお願いではなく、「お前は何万円の枠。」と命令されました。いつも世話しゆうがやき、これくらいはやれってことでしたので、そんな時は反抗することもいなく素直に広告料を払っていました。その分試合に行った時には「あれ食わせろ。」「これ買え。」とお金出させていましたけどね(笑)
パシフィックウエーブの活動が大変だと聞くと、やりやすいようにと岡本を県協会の理事長に仕立て上げたのも高さんです。岡本一人では心もとないので杉本さんを協会の副会長にして、周りを固めることも忘れていませんでした。その後岡本は頑張って、今では日本ソフトボール協会の専務理事まで上り詰めていますので、そのこと自体は岡本の頑張りが評価されての昇格であることは否定しませんが、こうなるきっかけ、道をつけたのは高さんであることは間違いありません。
私自身も会社を興した15年くらい前、補助金が入金されるまでにお金が足らなくなり、高さんにお金を借りたことがあります。「高さん、お金貸して。」「なんぼや?」「200万」「ちょっと待ちよれ。銀行に電話するき。」と言って、それ以上何も聞かずにすぐにお金を準備してくれました。補助金が入金されてきちんとお返しはしましたが、私のような言うことを聞かない男のお願いを聞いてくれる男前な人でもありました。
仏様になりました
12日の朝早く電話が鳴るので出てみたら「高さんが亡くなった。」とのことでした。土佐土建シニアは17日から広島県尾道市で開催される大会に出場する予定だったんです。体調の思わしくない高さんでしたが、その大会に行くことを目標につらい抗がん剤治療にも耐えてきていたんだと思います。
高さんの最初の不調は胃がんでした。心配しましたが乗り越え、この手術後そんなに時間も経たないうちに九州の大会に出かけたことを思い出します。胃を切除しているのでそんなに食べられないはずなのに、一緒にうどんを食べていました。無茶するなって思っていました。
次に脳梗塞になりました。もうダメかと思いましたが、不死身の高さんは乗り越えました。少し足を引きずるようにはなりましたが、練習にも参加してノックも普通にやれるくらいになっていました。この時みんなは「口だけ麻痺したら良かったに。」って言っていたものです(笑)退院直後はさすがに少し大人しかったんですが、すぐに元の口に戻っていました。
その後ガンの転移があり、それが身体のあちこちに広がって行きました。身体も小さくなりさすがの高さんもつらそうでした。そんな時西日本シニアの大会に行くかどうかの話しになって、これが最後になると思うき行こうということになりました。大会は見事優勝、その後一般も優勝しましたので終わりにするにはベストのタイミングだったんですが、本人はまだまだやるという強い気持ちがあったようで、それから2年経過しました。
しかし今年になってさらに病状が悪化して入院をしたりして、4月頃には食事が思うように取れないようになっていました。「5月どうしますか?」「高さんが行けんがやったら、行っても仕方ないがやない?」などと話しをしていました。杉本さんには「お前らだけで行ってこいや。」と言っていたらしいですが、杉本さんは「おまんがいかんがやったら、行ってもしょうがないろう。」と答えたと聞いてたので、行けなくなる可能性が高いと思っていました。
大会2週間前になって入院したとの連絡があり、大会の参加も辞退したと連絡がありました。本人は尾道に行くと頑張っていたはずなので辞退したことは知らせてないと思いますが、残念なことになりました。
そして12日に力尽きました。でもここまで良く頑張りました。さすがにもうダメやろうということをことごとく乗り越え、最後6か月の余命宣告までも乗り越え「この人ほんまにしぶといね。」「ひょとしたら今年も試合に行くがやろうか?」と思わせてくれていました。
13日に顔を見に行きました。前日行っていた杉本さんからは「きれいな顔で寝よったぞ。」と聞いていましたが、そこにいた高さんの顔は生きていた頃の憎らしさ、毒気が全部抜けて優しさだけの顔になっていました。思わず「どういうこと?毒気が全部抜けて、人の良いおじいちゃんになっちゅうやん。」と言ってしまいました。生きているうちに全部吐き出してしまって、善人としての顔だけが残ったということなのでしょうか?
16日の通夜、17日の葬儀告別式と顔を見ましたが、相変わらず穏やかな顔で眠っていました。もうどれだけ悪態をついても、あの大きな声を聞くことは出来ません。年を取ったせいでしょうか顔をみる度に涙が出て来るんです。あの怒鳴り声、自分勝手な言い分を聞くのがイヤで仕方なかったこともありましたが、いざ聞けなくなると寂しいものです。
17日の午後空に昇って行きました。どうか空の上では最後のように優しい顔で過ごしてくださいね。我々が後から行った時には、「遅かったねや。」と笑顔で迎えてください。お疲れさまでした。そしてありがとうございました。