阪神タイガースの抑えのエース、火の玉ストレート、ストレートという魔球などの言葉を聞くと、誰もが藤川球児だと気が付くと思います。その藤川球児選手が今シーズン限りで引退すると球団から発表がありました。
発表後はネットニュースで速報が入り、夜になると最近多くなったプロ野球のOBがやっているYou tubeチャンネルでたくさん球児のことが語られていました。翌日は新聞で大きく取り上げられるなど、その存在の大きさにあらためて驚かされています。
あのひ弱な選手がここまでやるとは
出会ったのは中学生の頃でした。その時すでに肘が痛いと言っていました。高知商業に進学してピッチャーを続けていましたが、肘が痛い、足が痛い、腰が痛いと言い続けていました(笑)
高校2年の時に背番号9で甲子園に出場し、その時初めて140キロを記録して注目されました。しかしエースナンバーの1を着けてからは甲子園には出られませんでした。同学年には明徳義塾に寺本(元ロッテ)高知高校に土居(元横浜→ロッテ)というピッチャーがいて、高知県で勝ち抜くのも大変な世代でした。
試合前になるとご飯が食べられなくなりました。特に最終学年の時の高知商業は球児が投げて打ってのほぼワンマンチームでしたので、そのプレッシャーを一身に受けてご飯が食べられなくなるんです。なので試合途中でスタミナ切れになることもありました。
春の選抜がかかった秋の四国大会、高知商業は優勝候補の筆頭でした。初戦の試合前「気持ちが悪い」と言い出しました。「卵かけごはんいかんかった。」今日は頑張ろうと卵かけごはんにしたんだろうと思いますが、プレッシャーで生卵を消化することが出来なかったようです。負けました。
こんなひ弱な男がプロ野球の世界で40歳まで野球をやりました。それも記憶に残るストレートと言えばと聞かれると有名なプロ野球のバッターが「藤川球児のストレート」と答えてくれる選手になるなんて、申し訳ないですが当時をすぐ傍で見ていたものとしては信じられない、奇跡を見ているような気さえします。
辞めると何回言ったことか
奇跡のドラフトで阪神タイガースに1位指名されてプロ野球選手になりました。1位指名は誰も予想していませんでした。さらに阪神タイガースで高卒ピッチャーが1位指名されて活躍したのを見たことがないのが不安材料でした(笑)
1年目は体力作り、走れ、走れの陸上部でした。2年目以降も鳴かず飛ばず戦力外通告目前というときもありました。やっと先発させてもらえるようになっても、やはりスタミナに問題があって2巡目になると打たれて交代ということが多かったように思います。
この頃も肘は痛かったですね。そして何かあるとすぐに「野球辞める!」「俺は野球辞めても生きて行ける。」って言っていました。辞めなくて良かったですね(笑)やはり継続は力なりです。いろいろな記録も作りましたが、私はあなたが18歳から40歳までプロ野球の世界で現役を続けたことに敬意を表します。えらかった!!!!
たぶん高知県出身のプロ野球選手では一番長く現役を続けた選手でしょうし、一番稼いだプロ野球選手だと思います。これからもこの記録を超える選手は出てこないような気がしますね。
予定外のプロ野球人生⁈
セットアップで日の目を見て、ストッパーとして有名になりました。メジャーを経験して日本に帰ってきたときに先発を目指したように、本人は先発として投げることが理想だったんだと思います。しかし彼にとっての適材適所と言える場所は後ろだったようです。これも予定外だったでしょう。
毎年自主トレを一緒にやっていたF先輩はメジャー志向がありました。しかしその当時球児にメジャー志向は全くなかったんです。彼はかなりの偏食でしたので、「アメリカ行っても食べるもんがないで。」これもメジャー志向がない理由の一つでした。そんな球児がメジャーに行くことになります。どんな事情や心境の変化があったのかは分かりませんが、そこに挑戦してみようと思ったことがすごいことだと思います。
行ってはみたもののメジャーはそんなに簡単な世界ではなかったようです。中学生時代から痛いと言っていた肘でしたが、手術などせずにすんでいたものがメジャーではトミー・ジョン手術を受けることになりました。これも予定外だったでしょう。
そして日本球界復帰となるんですが、条件等の調整が上手くいかなかったようで四国アイランドリーグに寄り道となります。独立リーグというものの浪人生活のようなものです。縁あってこの時に久し振りに身体を触らせてもらいましたが、阪神タイガースでバリバリ投げていた時の柔軟な筋肉がなくなっていたことを心配しました。しかしただ者ではありません。翌年の阪神タイガース復帰時には、しっかり身体も作っていたようです。
満を持して背番号18のエース番号を背負って復帰した阪神タイガースでしたが、残念先発では結果は出ませんでした。これも本人は予定外だったのではないでしょうか?先発でもやれる!という自信があるようなことを言っていましたので。
しかしこの男はそのままで終わりません。セットアップとして仕事をして、ついにはクローザーとして復活します。そして今年もう少しで名球会入りというところで引退を表明となりました。名球会に入れるかもというところまで来たことが予定外、さらに行けると思ったのに故障(手術が必要なレベルと発表)で2軍暮らしになるのも予定外だったんでしょう。
背番号は30→92→22→11→21→11→18→22と変わったはずです。こんなにたくさんの数字を背負うことも予定外だったはずです。 普通はどんどん大きな背番号に変わって行って途中でおしまいになるんですが、そうなっていないことがまたすごいことです。
そして最大の予定外は22年もの長きに渡ってプロ野球選手として活躍出来たこと、さらにその記録を見てみると歴代1位、初のという冠のつく記録をたくさん作ったということでしょう。まさかこんな野球人生になるとは思っていなかったと思います。自主トレの時にF先輩の「こんな遠投するやついませんよ!」と言う言葉に驚きました。野球の上手な人の集まりの中でも目立つ回転の良いボールは最初から投げていたようです。しかしそれだけでは勝てない世界がプロの世界です。ストレートと分かっていても、打てないストレートを投げたピッチャーは藤川球児だったようです。
大人になりました!
こんな予定外のことも受け入れられる大きな人間になりました。メジャーから高知に帰ってきたときに「俺はメジャーで失敗した人間やき。」と素直に認められる人になっていました。そしてその挫折も力にして日本球界に見事復帰してみせました。
治療中に大好きなお弁当屋のおかずをベッドにこぼしながら食べていた子どもが、長いプロ野球生活の中で良い指導者、先輩、仲間に恵まれて大きく成長しました。環境が人を育てたという良い事例だと思います。
残りのプロ野球人生楽しんでください。今シーズン再び1軍で投げられるようになるか分かりませんが、投げられるように努力するということですので見守りたいと思います。お疲れ様はシーズンが終わった時に言いたいと思います。
阪神タイガースの藤川球児
ファンから期待されるものは阪神タイガースの絶対的守護神としての藤川球児でした。その期待に応えれるよう前向きに頑張ってきたと、記者会見でも言っていましたね。立派な記者会見でした。
叱咤激励を裏切るのが楽しかった。そうですねタイガースファンは連続して抑えに失敗すると、遠慮なく「もう球児はおしまい。」「藤川を出すな!」と辛らつに言ってきます。そんな声を裏切ること、まだ俺はやれると示すことが大きなモチベーションになっていたんでしょう。
有名になってからは立派にもなりましたが自由も失いました。どこに行っても誰かの目を気にしないといけない生活が続きます。常に阪神タイガースの藤川球児を演じる必要がありました。それも大変だったでしょう。
私はそんな姿はあまり知りませんし、子どものころからの素の球児を見ることがありましたので、そんなエピソードの一部をブログに書いたりもしました。ただその姿はファンの皆さんが知っている藤川球児のイメージと違っていることもあるので、あんまり書くなと怒られそうなのでこのあたりにしておきたいと思います。驚いたのは有名な選手になると、すべてが美談になることです(笑)
結果を残すようになると「グランドに本当にお金落ちちゅうで。」と活躍するとお金がついてくることを喜んでいたのも束の間、「お金儲けも大変。」と心境が変わるのにそんなに時間はかかりませんでした。
阪神タイガースの藤川球児としての残り2カ月半、どのようにあがいてくれるか楽しみです。