日本男子ソフトボール界の大エース西村信紀さんのピッチング指導を2回に分けてお伝えしてきました。
なぜ私が西村さんに個人指導をしてもらえるのか不思議に思っている方もいらっしゃると思いますので、少し彼と私の関係について説明したいと思います。
二人の出会い
私と西村さんが出会ったのは私が24歳、西村さんが17歳のときになります。私は闘犬センターでピッチャーをしていて、西村さんは高知商業のソフトボール部でピッチャーをしていました。
この時代高知県にはインターハイ、国体の2冠を制した高知学芸高校があって、そこには有吉久和投手という高校日本一のピッチャーがいました。高校2年からソフトボール部に入った西村さんは、その身体能力もあって素晴らしいスピードボールは投げられるものの、完成された有吉投手率いる高知学芸高校の牙城を崩せず、県予選敗退に終っていました。
高知商業にボールの速いピッチャーがいると聞きつけた闘犬センターオーナーは、当時の監督であった杉本さんを高知商業に派遣します。杉本さんは高知商業ソフトボール部のOBですので、そのあたりは話は早かったようです。
そして練習参加、熊本で開催された一般男子の大会には帯同するなど、この時に入部はほぼ決まったみたいなものでした。本人に聞くといつの間にかそうなっていたみたいなことを言っていました(笑)これが闘犬センター得意の手なんですけどね。
最初の印象は「力任せに投げる高校生」くらいなものでした。
走る
当時の闘犬センターはひと癖もふた癖もある連中の集まりで、それぞれが一番でないと気に入らない者ばかりでした。仲良しのクラブチームではなくて、勝つために集まってきたチームであって、そのチームに中で居場所を見つけるには何か誰にも負けないものを持っている必要がありました。それがチームメイトとして認められる唯一の条件と言ってもいいと思います。
打力、走力、守備力などでも構いませんし、とりあえず毎回練習に来るということで存在感を認めさせた選手もいました。私は最初は自分が一番上手いと思っていましたが、それが井の中の蛙であることに気がつくのに時間はかかりませんでした。
そこでいつの間にかやり始めたのが、こつこつ練習するということでした。誰よりも走る、誰よりも遅くまで練習する。これしかあの時代の連中に勝てるものはなかったんだと思います。いつしか「あれだけ練習しているんだから、あいつで負けても仕方ないよね。」「どうせ負けるんだったらあいつで勝負しよう。」と言ってもらえるところまで来ていました。
ですからよく走っていました。練習前も練習後もランニングです。これに西村さんを誘いました。元々人並みはずれた身体能力に頼って投げてきた西村さんでしたし、コツコツ走るなんて高知県人は大嫌いなんです。当然私についてこられるはずがありません。
いつの間にか一緒に走ることはなくなりましたし、この時点で私としては西村さんは敵ではなくなっていました。こいつに負けるはずがないと思っていたんですね。
シーズンオフの夜
西村さんが入部してくる前のシーズンオフのある夜のことでした。私は闘犬センターで夕食をすませて、翌日の練習に備えていました。そこでオーナーから話しがあると言われました。
何かな?と思って聞いてみると背番号の変更のことでした。私に背番号1を着けてくれというお願い(強制なんですけど)でした。闘犬センター創設時エースは田中睦三さんで、背番号1を着けておられました。オーナーとしてはどうしてもエースは背番号1であって、私にその背番号1を着けてくれと言うのです。
私は高校生じゃあるまいし格好悪いのでイヤだと拒否しました。この年のシーズンをもって日本体育大学出身の左のエースであった故清水源司投手が東京に帰ることになっていました。試合には来シーズンも来ることにはなっていましたが、練習量も減るのでこれまでのような活躍は期待できないとなって、オーナーとしては名実ともに闘犬センターのエースはお前になって欲しいという気持ちの現れだったのかもしれません。
固辞し続けましたが、このお願いはお願いではなくて強制ですし、これを受け入れない限りこの話は終らないことは分かっていました。そして長い抵抗の末私の来シーズンの背番号は1に変更されることが決定しました。
この時はオーナーの頭の中のエースは私だったはずです。
日本リーグ開幕
この背番号の変更がプッレッシャーになったのか、シーズンが始まる前に突然私の肩が上らなくなりました。それも朝起きたら上らなくなっていたんですね(笑)
最初の大会は日本リーグの第1節刈谷大会でした。私は肩が上らず練習していませんし、清水投手もほとんど投球練習していないということで、初戦、第2戦はこの年加入した西村投手と有吉投手で行くことになりました。有吉投手は闘犬センター入部の予定はなかったのですが、大学受験に失敗して、浪人中の1年間だけということで入部していました。
高校日本一とは言え所詮高校生です。日本リーグで戦ってきたバッターをそう簡単に抑えることはできません。さらに西村投手はボールは速いのですが、荒れ球でまとまっていません。
この二人で日本リーグ開幕2連敗という最悪のスタートを切ることになりました。
そして3試合目との休憩時間に私のところに二人の選手が歩みよってきました。チームの中心選手だった佐竹選手と家竹選手でした。そこで発せられた言葉が
「ヒロシ君、肩壊れてもええき投げや!」
とても嬉しい言葉でしたけど、後からよく考えてみるとひどい言葉ですよね(笑)
最後の登板
この二人にこう言われて投げないわけにはいきません。投げられるかな?と思って投げてみると、不思議なことに肩は上がりますし、痛みもありませんでした。
それを確認した杉本さんがオーナーに電話します。
「ヒロシで行きます。」
闘犬センターの先発メンバーはオーナーの承認を受けないといけませんでした。この選手を使えと指示があることも多かったです。この時もなかなか首を縦には振らなかったようですが、開幕2連敗もしていましたし、杉本さんが引かなかったようでシブシブOKが出たようでした。オーナーは3連敗も考えていたようでしたね。
ところがこのような選手の想いを粋に感じた私は、練習不足も感じさせないようなピッチングで、日本電装(当時)を1-0で完封してしまいました。
この試合の後、極度の緊張から解かれたからでしょうか、泣いている自分がいました。理由も分かりません。誰かに何かを言われたわけでもありません。ただ涙が出てきたのを覚えています。勝って泣いたのは後にも先にもこの1回だけでけになります。
この嬉し涙が惜別の涙になったのに気が付くのは、ずっと後になってからになります。
行けると気を良くした私は杉本さんに
「次も行きます!」
と伝えます。
返ってきた言葉は
「次は源司(清水)で行く。」
でした。結果は引き分け。ほら俺で行っていたら勝てていたのにと思ったことでした。
ということでこれで日本リーグ第1節は1勝2敗1分けで終了して、この日本電装戦が私の現役最後の登板になりました。
西村で行け
この日本リーグ第1節以降オーナーの口から出てくる次の試合の先発ピッチャーの名前に「山崎」が出ることはなくなりました。出てくる言葉は
「西村で行け!」
です。
この1年目にはそれなりの理由がありました。この年にジュニアの世界選手権が開催されることになっていました。有吉投手などは高校時代の実績もあり、その完成度や闘犬センターに所属しているなどほぼ当確だったわけですね。ところが西村投手は実績もなく、中央にはその存在すら知られていなくて、闘犬センターの選手ということだけではなかなか選出されるのは難しいと考えたんだと思います。
そこで日本リーグや全国大会で活躍をさせて、西村投手を全国的に認めさせてJAPANに選出させるという作戦を取ることにしました。この作戦が成功して、西村投手はこのジュニアの世界選手権の全日本チームのキャプテンとして参加します。
ここからの西村投手の成長は目覚しく、これ以降全日本から外れることなく世界選手権5大会連続出場という快挙を達成することになりますし、そのどの大会にもエースとして参加していますので、すごいことだと思います。
このオーナーの「西村で行け!」の最初の犠牲者が私で、前述したようにシーズンオフに背番号1に強制変更させられた上で、ピッチャーをする機会を奪われてしまいました。この西村さん1年目に限って言えば私の方が上でした。実力で負けて投げられないのであれば納得しますが、そうでない要因でピッチャーが出来なくなるというのは納得がいきませんし、負けを認めることはできません。
いくら走っても、投げても試合で投げることができないということが分かって、このシーズン終了後に自らピッチャーを辞めることを杉本さんに伝えたような記憶があります。
それから私はずっとバッティングピッチャーをすることとになります。
他にも闘犬センターには能力のあるピッチャーが入部してきましたが、西村投手全盛の時代は大事な試合は「西村で行け!」が続いていましたので、他のピッチャーが育つことはありませんでした。実力がないと言えばそれまでですが、大きく育つ芽を摘んできたともいえるのかもしれません。
西村投手の偉大さ
最初は闘犬センターというチームあっての西村信紀という選手でしたが、彼がニュージーランド研修を終えて帰国してからは、西村信紀ありきの闘犬センターだったということができると思います。彼の成績が闘犬センターの成績になりました。そのおかげで長く日本一の座を保つことができました。
国内通算成績 322戦237勝38敗1分け
こんな成績を上げるピッチャーはもう出てこないのではないでしょうか。そしてこんな酷使されるピッチャーも出てこないと思います(笑)
その素晴らしい経歴の一部をご紹介しましょう。
二人の関係
出会ってからもう33年ほどになりました。私が7歳年上の先輩であることは変わっていません。私が現役中はずっと頭を上から押さえていた存在だったのかもしれませんね。時々そのピッチィング内容について怒ったりもしていましたから。
そして引退後はトレーナーとしてチームに帯同していましたので、西村投手の身体のケアもさせてもらいました。ちょっとは彼の投手としての成績に貢献もしているんですよ(笑)
ただこのトレーナーはチームの最古参であり、時には作戦の指示もしますし、選手の行動に注文をつけたりするやっかいな存在ではありました。
西村さんにピッチャーの座を奪われた者として彼の存在と活躍を疎ましく思っていたことも事実です。なかなか負けを認めたくなかったですね(笑)ただ西村さんの苦労も横でずっと見てきましたので、晩年は彼の負担を少しでも軽くしようとしたこともあります。
持って生まれた身体能力だけで、あそこまでの成績を残すことは出来ません。最初私について走れなかった西村さんが、人が見ていないところで走っている姿を見るようになって、そして理論的にも日本一の理論を持っていることに気がついてからは、これでは西村さんにかなうわけがないと、はっきりと負けを認められるようになりました。
やはり西村さんはこれまでの日本人のピッチャーの中で、最も優れたピッチャーです。今はその経歴、人間性を尊敬しています。
詳しいことはこちら
この闘犬センターの25年間については、こちら
「ソフトボール日本一への道」(まぐまぐ)
https://archives.mag2.com/1640231/
または
「ソフトボールを愛する人にお届けするブログ」(アメブロ)
https://ameblo.jp/softbool-coaching/entry-11944729372.html
に書きましたので、興味のある方は除いてみて下さい。